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講演内容を、少しだけ・・・

さて、それでは講演内容を簡単にご紹介致しますのでご一読頂ければ幸いです。

内容を詳しくお知らせしたく、またテーマが多い為、少し長文になってしまいましたが、内容が立体的に分かるのでお読み頂く事をお勧めします。

内容は主催者や趣旨に関係なく羅列しております。講演会では主催者のご希望をお尋ねして構成致します。


●講師選びの会議用の講演会資料はこちら

それでは、BGMをスタートしましょうか。雰囲気をお味わい下さい。
別ウィンドウでプレイヤーが立ち上がりますので音量を小にして_をクリックし最小化してください。
では、BGMスタート もちろん、BGMはお好みでどうぞ。

 第五頚椎損傷という怪我をしてから、色々なことを経験させてもらいました。どんな時も自分に負けなかったことで今の幸せがあります。育児に追われながらも、家族を養うために動かない体で必死に働き、合間を見ては講演活動。是非、「死を見つめ、どんぞこから這い上がった人間のたくましさ」をお話しさせてもらえればと思います。今をあきらめてしまう前に、皆様にとって何かを感じていただけると思います。

 手足が不自由な為、自分では、トイレもお風呂も着替えさえも、満足に出来ません。眠る事も自力では出来ず、誰かに手を借りなければ生きてはいけません。なので、「生きる事に必死」です。皆さんは「生きる」ことに疲れた時はありませんか?止めてしまいたくなった時はありませんか?明日へのエネルギーが欲しい時、「必死に生きている人間の話」を聴いて下さい。きっと、希望と勇気のエネルギーを得られるでしょう。そして、一回り大きくなった自分と、感動と共に思いやりの種を拾った自分に気付きます。難しい内容や泣かせるだけの話は出来ません。涙あり、笑いあり、そして、考えてもらう。話の中から心の豊かさを実感してもらえれば幸いです。



 詳しくは、講演でお話しますが、私が怪我をしてから、現在に至るまでのエピソードを、少しだけ書かせて頂きます。 色々な事がありすぎて、すべてを書ききれませんので、詳細は省いて書きますね。少しの間、ハプニングの連続にお付き合いください。よろしくお願いします。あっ!その前に・・・、しばらく幼少、学校の話が続きますが、「な~んだぁ、学校関係の講演かぁ~」と「早とちり」しないで下さいね。決して、学校関係だけの講演ではありません。企業、福祉、子育て、その他団体の皆さんは、少し我慢して終りまで読んで下さい。最後迄お読み頂ければ、「う~んなるほどなぁ!」と、きっと何か感じて頂けます。「絶対に」感じて頂けますので頑張って終わりまでお付き合い下さい。よろしくお願い致します。

 さてと・・・始めましょう。
おっと失礼!せっかく来てくれたのに何も出していませんでしたね。
何のおかまいも出来ませんが、ケーキでもいかがですか?(笑)



 まずは、ざっと自己紹介。私の人生、色々なことがありました。

 私は5才の時に目の前で父親が倒れ死にました。その後、母子家庭で育ち、陸上競技棒高跳び日本高校記録に、もう少しのところで怪我をし、寝たきり状態になりました。その後、自殺を考え、しかし、後輩やボランティアの温かい協力により無事復学、卒業をします。怪我をする2年程前に母は再婚をしました。その結果、義父と姉が衝突し、姉は家を出ました。その後、私は、リハビリを経て、自力で仕事も見つけ、見事就職! 現在の妻と出会い、障害者と健常者との恋愛を経験し、そして、結婚。その後、1000g、1200g、1500gの3つ子が産まれ、重度障害者で父親、育児を経験します。子ども達は未熟児の為、眼が見えなくなる・・・。そんな不安と戦いながら、精一杯、仕事、子育てに励んでいます。そんな時、真夜中に実家が火事の連絡! その後、両親のために実家を再建、そして、自ら自宅も。 現在は、サラリーマンのかたわら全国各地で講演を頼まれ、講演活動を行っております。



 さて、自己紹介も終えたので、いよいよ講演内容に入らせて頂きます・・。

 唐突ですが、皆さんはご両親との思い出。どんな思い出がありますか?

 「一緒にお風呂に入った」とか、「肩まで浸かって1から10迄を一緒に数えた」とか、「運動会には必ず来てくれた」とか、うちのお父さんは「食事の時に必ず<ご飯残すなよ>って言ってた」とか、「病気の時におぶって病院へ連れて行ってくれた」とか、色々な思い出があると思います。下記をお読みいただく前に、瞼を閉じて少しだけ思いだしてみて下さい・・。親との思い出は何故か目頭が熱くなるものですね・・。

それではここで「私と父との一番の思い出」を少し。あっその前にBGM 再始動はいかがですか?

 私が5才の時でした。もう、三十六年も前の事なのに、今でもはっきりと覚えています。
朝食の時、当時、私が大好きだった「ワカメの味噌汁」を食べていたんです。8時過ぎでしょうか。
3才年上の姉が学校へ行き、いなかったのでその位の時刻だと思います。その時、突然私の後方から奇声が聞こえたのです。「あばぁばぅうぅぅ」その声は、叫び声とも、うめき声とも言えない、不気味な声でした。

 私は、恐る恐る振り向くと、そこには父が倒れていたのです。今までドライヤーをかけていた父が、出社準備をしていた父が、奇声と共に、鏡にもたれかかれるように、そっと倒れていきました。スロービデオのようにゆっくりと、ゆっくりと、倒れていきました。そして、普段やさしい父から見る事の無い、恐ろしい形相の父に変わっていったのです。

 私は慌てて母を呼びました。なんて呼んだのかそこまでは記憶にありません。三十六年も前ですからね。母も動揺したことと思います。母は急いで掛り付けの医師に電話をしました。今で言うホームドクターでしょうか。そして、母は1~2分くらいの所に住む父方の伯母を呼びに行きました。母も必死だったと思います。急いでいたので裸足で行ったようでした。私は、一人ぼっちで物凄い形相の父の側にいました。父は唾を「ペっペっ」と吐き、と言っても普通に吐くのではなく、よく「泡を噴く」と言う事を聞きますが、あの状態がきっとそうなんだと思います。「ぺっぺっ」と細かく小さな唾を噴いていました。その様子は、「石鹸のような泡」とは違うんですよ。「ぺっぺっ」と細かく小さな唾を噴いていたのです。

 「怖くて怖くて・・・。」 私は、普段見たことの無い父の姿に衝撃を感じていたのでしょう。ただ、「怖い」のひと言でした。そりゃそうですよね。救急医療センターの医師じゃあるまいし・・・。5才の子供ですもんね。独り泣きじゃくり、事の一大事を感じていました。ただ、怖かったという記憶だけが今も鮮明に甦ります。

 しばらくして、母が戻り医師が来ました。医師は、血圧を測り首を振りました。「もう、無理だ。それでも、救急車呼ぶかい?」 母は縋る思いでした。救急車が呼ばれ、父と母と私と、市立病院へ運ばれました。父は救急室へ連れて行かれ、普段車なれしていない私は、吐き気をもよおし、外で嘔吐してしました。だから覚えています。「ワカメの味噌汁」

 父が処置を受けている間、私だけが中へ入れてもらえません。子供だからでしょう。病院の冷たい廊下で独り淋しく待っていました。寒くてね、立ったり座ったり。こういう時はとても時間が長く感じるものです。心細く独り一生懸命我慢していました。そうこうしていると、姉が父方の伯父に連れられ病院へ到着しました。と言っても姉も治療室に入れてもらえる訳も無く、二人で廊下で待たされました。長く長く心細い時間が過ぎました。どのくらい待たされたのでしょう。とても、とても、長かった・・・。 しばらくして看護婦に呼ばれました。

「お父さんきれいにしてあげようね。」

 5才の私には、何のことか分かりません。多分、姉も分からなかったと思います。私と姉は病室の中へと導かれました。そこには眼を真っ赤にした母と、体に管を入れられた父が横たわっていました。ペニスに管を入れられ、ベッドサイドに垂れ下がったビニールの袋には父の尿が溜まっていました。今まで見た事の無い光景に戸惑っていると、看護婦が言いました。「お父さんにお水あげようね」そう言って、割り箸のような棒の先に綿をつけ、水を含ませ唇にそっと当ててあげました。顔も拭いてあげたようにも覚えています。何故か涙が溢れていました。何故だかは分かりません。何も分かりません。ただ、分かっていたのは優しかった父が声をかけても動いてくれない。という事だけでした。今では遠い遠い記憶の中です。

 夜になると、お通夜の為、親族が集まり始めました。当時の私は無邪気なもので、自分の父親が死んだことすらよく理解できず、色々な人が集まってくれて嬉しくてはしゃいでいました。何故周りの人達が泣いているのか不思議でした。周りの人が泣いているから「私も泣かなくてはいけないんだ。」そんな思いで泣いていました。

 父は沢山の思い出をくれました。倒れる前夜も花火をしてくれましたし、風呂も一緒に入りました。トイレでは「おしっこチャンバラ」をしました。「おしっこチャンバラ」ってご存知ですか?その名の通り、「おしっこでチャンバラ」です。優しくて子煩悩の父でした。倒れた朝は倒れる前まで話をしてくれていました。しかし、人間なんてあっけないものです。一瞬です。一瞬で亡くなってしまいました。私も同じです。一瞬で歩けなくなりました。でも、人間は強いんです。中々死なないものです。私を見れば分かります。

 これを読んでいる皆さんの中で、今、死にたいと思っている方、中々死ねないものですよ。
自殺して障害でも残ったらその方が悲惨ですよ。あせらずにも死ぬ時は簡単に死ぬものですよ。

 翌日、父の葬儀が執り行われました。私は泣きたくても泣けません。当たり前です。父が死んだことすら理解していないのですから・・・。私は一生懸命泣く振りをしました。周囲の人たちは涙を流しています。だから、私も「泣かなければいけないのだ。」という使命で泣く振りをしました。やがて葬儀も終わり、霊柩車に棺が入れられ火葬場に向かいました。火葬炉の前には、何人もの写真が飾られていました。5才の私には初めて見る光景でした。やがて、父の棺を火葬炉に入れる時間になりました。火葬炉の扉が開きます。台車に乗せられ、ゆっくりと父の眠った棺が入れられました。父との最後の別れです。そして、扉が閉められた瞬間、私は初めて心の底から泣き叫びました。

「お父さんを出してぇ!」

 そこには、何も分からない5才の男の子の叫び声だけが虚しく響き渡りました。私と父との生活は5年間というあまりにも短い時間でした。

それが「私と父との一番の思い出」です。

  BGM 再始動


 話が前後しますが、私が小学生、そう5年生だったかな。サッカー少年団というのに入りました。6年生になり、ジャージを着てくる子が出てきました。私も、そのジャージが欲しくて母親に言いました。「皆ジャージを着ているんだ。俺も欲しい。」5歳で父をなくし、母子家庭という当時の我が家にはそんな余裕はありません。しかし、母は「これで買いなさい。」とひとつの瓶を持ってきました。中には1円玉や5円玉ばかり・・・。私はこたつの上に出して数え始めました。「ひとつ、ふたつ、みっつ・・・」数え終わるとなんとかジャージを買える金額です。(やったぁ買える!)嬉しさで胸ときめきました。しかし、想いとは別にそのお金を瓶に戻しました。そして、母に言いました。「俺、我慢するよ・・・」母が必死に貯めたお金。子どもを生かせようとして必死に働く母の後姿を見てきた私の行動でした。

 母子家庭生活の中で非行に走る機会が沢山ありました。中学生になると周囲にはタバコ、万引き、暴走族に参加する友達がいました。私はその友人達に誘われても非行に走る気になりませんでした。「それは何故でしょう?」 それは、「私達を生かせる為」に女手ひとつで「必死に働く母の後姿」を見て来たからです。「この人を悲しませてはいけない、苦しめてはいけない。」という気持ちがあったからなのです。

 「必死になって働く親の後姿」これが一番の影響を与え、一番のしつけになるのではないでしょうか?私は自分の経験からそう思います。だから、私はボロボロになるまで一生懸命働きます。そして、その後姿を子供達に見せるつもりです。そして、私が死ぬ時、「パパは頑張ったよ」と言われたい・・。そして、子ども達に子どもが産まれたら・・。「パパは頑張ったよ」と言われて欲しい・・。

●皆さんは子供達に必死になって育てている「親の後姿」を見せていますか?
●胸を張って見せられますか?

 立派でなくていい、格好良く無くていい。一生懸命生きている姿。それが、一番のしつけになるのではないでしょうか?


 小学生、中学生、高校生、学生の皆さん考えてください。

●皆さんは、自分の両親が、「あなた達を幸せにしてあげたい」と、そういう気持ちで、必死に働いてくれている事を考えた事がありますか?
●皆さんの両親も皆さんとお同じなの知っていますか?

 お父さんもお母さんも、朝起きて「今日は体がつらい、仕事を休みたい!」と思う時もあるのです。それでも必死になって仕事へ行きます。また、お客様の所で土下座をしてまでも、仕事をもらっている事を知っていますか?それは何故か分かりますか?

 職場や近所づきあい、社会の中で苦しみ、もがきながら、必死にあなた達を生かそうとして、働いているのを知っていますか?

 あなたに幸せになって欲しい。おいしいものを食べさせたい。あなたの笑顔が見たいから親は頑張っているのです。そして、あなたの笑顔がその日にあった嫌な物すべてを吹き飛ばしてくれるのです。反抗期で照れくさいかもしれませんが、自分に素直になってみようよ。素直になれない時、ご両親とあと何回お正月を過ごせるか考えてみませんか? ほんの十数回ですよね。そう思うと淋しいものですね。

これらの話は毎回大好評です。



 子育てと言えば、こんな事がありました。

 私の母は、新しい洋服を買ったとき「いざという時の出かける時用にも考えておいてね」とよく言っていました。母子家庭ゆえ、そう簡単に洋服を買える訳でもなく、その気持ちも理解できます。

 つい、2,3年前の事です。3歳年上の姉と話す機会があり、その思い出話に華が咲きました。すると姉は自分の娘にこう言い出したのです。「お母さんは新しい洋服を着たらいつもお祖母ちゃんに怒られていたのよ」 私はその言葉にビックリして慌てて言いました。「違うよ!<出かける時に困るからしまっておいて>って言ってたんだよ。いつも新しい服を着てしまい、出かける時に洋服が無くて<いざという時の出かける時に困るから考えて着てね。って言っていたでしょ!>って怒られていたんだよ」

 私は母の言っていた「いざという時の出かける時用にしまっておいてね」という事が理解できていて、しかし、姉は3歳も上なのに母の言っていた事は理解しておらず怒られ、しかもそれが「新しい洋服を着る度、怒られた」と勘違い。母の言っている意味は「新しい洋服を着たらいけない!」ではなく、「いざという時用の洋服を考えていて欲しい」なんです。

 同じ事を言われていたにもかかわらず、私と姉の理解の違い。物を伝えるにも、その子供が理解できる伝え方が必要なんです。

  BGM 再始動

 高校生になり、棒高跳びに熱中していました。日本高校記録を目指せるぐらいになった。そんな時、怪我をして入院。担任がお見舞いに来てくれこう言いました。「学校側は濱宮は学校の名誉の為に戦い怪我をしたから卒業をさせてあげよう!そういう話があるぞ。どうする?」私はそれを聞き、猛烈に頭に来ました。「何故卒業出きるのですか?おかしいじゃないですか?出席日数が足りるはずが無いのに卒業できるなんて・・おかしいですよ!」私は続けました。「私は身体はダメになりました。これから頭を使って生きていかなければなりません。頭だけで生きていくには、車椅子で通いキチンと勉強をして卒業をしたいのです。そして怪我をして諦めている、車椅子になったからって自分に負けている自分が嫌なんです。私は留年します。留年して車椅子で通い卒業します。ダメですか?」それを聞き、担任は困惑の色を隠せません。担任はこう答えました「分かった!おまえの気持ちを職員会議で伝えるよ。」そう言うと、担任は帰り支度を始めました。「濱宮!リハビリ頑張れよ!」そう言い残し、病室から出て行きました。後に、職員会議にかけられ復学が決定しました。その瞬間、私は車椅子での社会復帰のスタートラインに立ったのでした。



 復学後の高校時代の話です。陸上部の後輩と同じクラスになりました。この身体になると、指も動かないので何も出来ず、授業の用意すら出来ませんでした。すると、後輩達が頼みもしないのに授業の合間に私の所へ来てくれるんです。「先輩、次、数学ですよ」そういうと、カバンから教科書を出し、授業の用意をしてくれるのです。そして、授業が終わると再びやってきて、次の授業の用意をしては自分達の席に戻って行くのです。

 この身体になると「ウンコやおしっこが出ることも我慢することも出来ません。」下痢をすると、そのまま出てきてしまいます。おしっこの方は、集尿器という袋をペニスに取り付け、垂れ流しで袋に溜まります。私は高校時代、自力でその袋から尿を捨てることが出来ませんでした。いつもの様に後輩が側に来ます。袋を触り、「先輩!おしっこ溜まっているよ!トイレ行きましょうよ」そう言い、トイレでおしっこを捨ててくれます。ある日、「先輩!たまには立ちションしましょうよ」そういうと、学校裏の空き地へ連れて行って、おしっこを捨ててくれていました。

 そんなある時、集尿器の袋が壊れ、後輩の手におしっこが掛かってしまいました。その瞬間、私は(うわぁ~申し訳ない)と思ったのです。すると、後輩はこう言いました。
「先輩!こんなこと気にする事じゃない!手を洗えばいい。只それだけの事ですよ!」



 体験談から少し話はそれますが、講演後、ある方がこう言ってくれました。
「私は障害者の人を見ると近づく事が出来なかった。理由は、<障害者の人の面倒を見なければならない>と思うと近づけなかった。でも、違うんですね。面倒を見るのではなく、出来ない所だけ、チョッと手を貸せば良いんですね。それなら簡単です。濱宮さんの講演を聴いて初めて気付きました。気付かせてくれてありがとう!」そうなんです。前述した後輩たちの様に出来ない所だけチョッと手を貸してくれればいいんです。




 話を戻します。 えっ!?その前に・・・何ですか?あっ「ケーキのおかわり?」分かりました。では、今度はチョコレートケーキでも・・・。
あっ、そう言えば、そろそろBGMが終わってませんか?BGM 再始動しますか?

 そんな、仲間に支えられ高校生活を送りました。時は流れ、周囲は進路の話に入ります。私の周囲は、進学、就職と決まりだしました。私だけ「蚊帳の外」。先生方も何を指導していいのか、分からないようです。私は、考えました。「この間々親に迷惑をかけて生きていくのは嫌。自分の進路は自殺かな」私は、死ぬ場所を探しました。でも、中々死ねるものでもありません。



 私には弟のように可愛がっていた二つ年下のいとこがいました。私が入院中、彼は独りで倉庫のような所で、首をつり亡くなりました。誰にも気づかれず、発見された時は、死後二日が経過していました。理由は分かりません。

ここで皆さんにひとつだけ言わせて下さい。

 あなたが死ぬ事で、多くの人が悲しみます。

「あなたの命」は、あなたの「命」かも知れませんが「あなたの家族や周りの人達の命でもある」事にも気付いて下さい。日常、誰も言葉で表しませんが、あなたの存在が、「多くの人に潤いと生きがい」を与えています。お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、お父さん、お母さん、家族、そして仲間。

 あなたが生きている事で皆が助かっている・・・。その人達の為にも、あなたには、「生きる義務」がある事を知って欲しいと思います。「産まれてきた以上、生きる義務があるのです。」 今、目の前のちっぽけな悩みは、単なる通過点に過ぎず、そんな事に振り回されず、今を一歩ずつ進む事です。

 昨日を悔やまず、今日を大切に、明日に前向きに、生きる想いが大切なんです。



 そんなある日、一人の先生が「おまえコンピュータの勉強をしないか?」の一言。結局、コンピュータの勉強をする為に作業所に行くことになりました。しかし、そこは全寮制です。私は自力でトイレ、お風呂、着替えが出来ません。この話は少し長くなりますので省きます。「負けてたまるか!」の16話17話18話19話20話21話22話23話24話、をお読み下さい。結局、寮には入れないので送迎ボランティアを探す事になります。ポスター、チラシを作り配布。新聞社、テレビ等のマスコミにも相談しました。中々見つからず、途方にくれていると、やっと、やっと一人見つかりました。

 しかし、作業所に通う時、作業所の面接担当に言われました。「作業所は、仕事を斡旋する事まで目指していますが、あなたの場合、重度すぎて仕事が出来る障害レベルではない。仕事が見つからなくても、二年間のコースを終えたら止めてくださいね」 私は言いました。「分かりました。でも、やって見なければ分かりませんよ」と。詳細は、講演にてお話しますが、後に、クラスの中で、一番最初に就職が決まりました。そんな状態で寝たきりにも近い私が、現在は、妻と三人の子供を養っています。



 そう言えば、こんな感想文を書いていた女子生徒がいました。
「私は自殺を考えていました。でも、濱宮さんの話を聴いて自分の悩んでいる事がちっぽけな事だと言うことに気付きました。だから、自殺はしません。濱宮さん、ありがとう!」
心の中の悩みは誰にも見えません。私の講演で引き止める事が出き「ホッ」としています。



 ショートスティに行った時の話です。そこのセンター長が目を真っ赤にして言いました。
「濱宮さん・・講演をしているなら、今から話す話を話して欲しい・・・」そう切り出しました。

 「実は姪っ子がある男性を好きになり、結婚をしたい。と言い出したんだ・・・両親はごく普通の親で変わり者でも、頑固でもない。しかし、相手が車椅子だったんです・・・」
両親は、「障害者と結婚をしたら幸せになれない」と反対をしてしまったのです。
その結果、「二人は自殺をしてしまった」
センター長は泣きながら続けました。「何故、障害者と結婚をしたら幸せにならない。と決め付けるんだ。二人が困っている時に周りの人が、少しだけ手を貸してあげれば良い。只、それだけの事じゃないか。」「濱宮さん・・講演をしているなら、この話を皆さんに話して欲しい・・・」私は約束通り、講演会で必ず、このお話をさせてもらっています。

 さて、私も結婚をしています。なので、私の結婚の時の話をさせて下さい。
私も、妻のご両親に結婚の承諾を得る時、とても緊張しました。「なんて言われるのだろう」この不自由な身体ですし、何かを言われる覚悟はありました。そして、妻の両親と会い、挨拶をしました。色々と話をしていると、義父はこう言いだしました。
「濱宮くん・・人間はね、体が不自由なことよりも、心が不自由なことの方が、よっぽど問題だ。 今の世の中そういう人間が多いじゃないか。その方がよっぽど問題だよ。」

それでは、ここで皆さんに当てはめてみて下さい。

心が不自由って何ですか?
心が貧しいって何ですか?


私は講演で必ず皆さんに考えてもらうんです。

「自分勝手、暴力、使いっぱしり、いじめ、職場内いじめ、
 いやがらせ、大人なのに社会的ルールを守れない・・・」

あなたは心が貧しくありませんか?

・・・と、この話をすると、必ず、ドキッとする人がいるんです。

 これをお読み頂いている方の中にもドキッとした人がいるんです。皆さんは、「体が不自由な私をかわいそう」と思ったと思います。しかし、皆さんの中には「もっとかわいそうな心が貧しい人」がいるんです。



 車椅子マークを思い出して下さい。

 どんな所で見かけますか?

「トイレ!」、「エレベータ!」、「駐車場!」etc・・「駐車場!」が出てきたので「はいはい、皆さ~ん、そこら辺で結構ですよぉぉ~。」「さて、それでは車椅子の駐車場。を思い出してください。」
「じゃあ、皆さ~ん今日は土曜日、いや日曜日!にしときましょう。」お母さんが「お父さ~ん夕食食べに行きましょうよぉ~」と言い出しました。そして、家族でファミリーレストランへ。駐車場は日曜日で混雑。やっと一台だけ空いてました。

お父さんがそこにそっと停めました。そして、「おい、隣の車傷つけるなよ」そう言われた事、又は言った事があると思います。さて、問題です!

「その時!足の悪い人や車椅子の人がいたら降りられますか?」

そう、答えは「降りられない!」車椅子の人はドアを最大に広げて乗り込みます。車椅子マークの付いた駐車場は、普通の駐車場より幅が広いのです。車椅子の人はそこでしか乗り降りできず、又、移動が難しいので、その駐車場は入り口近くの便利な所にあります。しかし、便利なため健常者の人が置いてしまうことがあるんです。

ある日、そこに車椅子の人が停めて買い物から戻りました。隣にぴったりと健常者の車。そうなんです。幅が広い為、通常の1.5倍あるんです。車椅子用駐車場が2台並んであると、健常者の車は3台停める事が出来てしまうのです。車椅子の人が入るスペース無く、「ドアが開かない!」困りました。車椅子の人は夜遅くまで、隣の人が来るまで、待ち続けなくてはなりませんでした。17:00に買い物が終わったのに隣の人が来る迄、待ちました。そして、時刻は22:00を過ぎていたそうです。

さて、もうひとつ、数年前の話です。姪っ子を連れ、あるテーマパークへ行きました。パレードを観ることになり、その前に車椅子マークの付いたトイレへ・・・。すると、そこには、行列が・・・。先頭の女性は、そう、23~27才位の方でした。すごく、気まずそうな顔をして、「どうぞ・・・」と譲ってくれました。私は「ごめんなさい。」と謝って譲って頂きました。すると・・・、中に入ろうとした瞬間、列の後方から小学校4年生~中学1年生位の女の子が、「えっーずるいー」と叫んだのです。

 先日、神奈川県のリハビリ学校で講演をさせて頂いた機会があり、先生に確認してみました。すると、車椅子マークとは、今の日本では、「専用」ということでした。



それでは、ここで皆さん考えてみてください。

1.テーマパークは、そのトイレに車椅子のマークをつけています。
2.車椅子のマークについて、今の日本では「専用」ということです。
3.車椅子というのは横幅が広く、通常のトイレは使えず、そこしか使えません。
4.そのトイレの横には、普通のトイレが男女用ありました。
5.車椅子トイレには、行列が出来ていました。
6.私は、先頭の方が譲ってくれたので、謝って入りました。
7.その瞬間、小学校4年生~中学1年生位の女の子が「えっーずるいー」の声。

果たして、
私のとった行動は正しかったのでしょうか?
正しくなかったのでしょうか?


私は、今でも時々考える時があります。自分の行動は正しかったのか?否か?

・・・と、この話を皆さんにした時、90%が「正しい」と言います。しかし、残りの10%の中の7%は、「分からない。なぜなら、その女の子が車椅子の人の事を知っていたら、きっと言わなかっただろう!私達は、学校でも、どこでも、そういう事は教わらない。だから、どちらも間違えとは言えないと思う。」と、とても頭の良さそうな奇麗な字で書いてくれます。残り、3%の人は、1行の殴り書きで、「平等にして欲しいのなら、どんな状況でも待て!」です。

 私は、この頭の良さそうな奇麗な字の7%が、「するどい事を言っているのかな?」と正解だと思っていました。しかし、ある日、この話を人に話したら、「濱宮さん、今の日本も捨てたものじゃないねぇ。だって、まともな考えの子が90%いたじゃないですか。教わらなきゃ判らないなんて問題外ですよ。」だって。

さて、この話の続きは長くなるので省かせてください。



 以前、インターネットの掲示板で色々な方と話をしている時、こんな書き込みがありました。

 「映画館等の施設で、込んでいて皆並んでいるのに、車椅子の人は先に優先されますよね。あれってずるいですよね。」って。小中学生のお子さんを持つお母さんの書き込みです。ご立腹のご様子。それに対して同調する方も少なからずいらっしゃいました。

 私はこう書きました。「違うんですよ。あれは危険防止なんですよ。皆さんが雪崩れ込むように入場するとき、車椅子がいた場合危険ですよね。立っている人間には車椅子が見えず、車椅子の上は空間があるので、<空いている様に見える>そこへ皆が進もうとした時、<車椅子と言う物体が下にはあり>、<足元すくわれる>場合もあります。麻痺した障害者は危険を察知してとっさには動けません。<お互いの安全を確保する為>なんですよ」と説明。皆さん<知らなかった・・>なんですよ。ご立腹で書き込みした方が、納得して謝っていました。

皆さん知らないんです。どこでも教わらなかったから・・・

だから、講演後、私宛の感想文で「濱宮さん多くの人へ伝えて!」というのが多いのでしょうね。

 そういえば、余談ですが、昔、大晦日に妻とのデート。テーマパークでパレードを観に・・。メチャ込んでいて、中々進めず、そしたら、私の<頭の上の空いている空間>からか、誰かが「そんな所で座るな!」と叫んでいました。後ろから押され、<将棋倒しによる身の危険>を感じましたよ。

 色々あるんですよ。障害者用に設備を整えると、健常者の方が「逆差別!」ってね。また、障害者は自分の甘えを置き去りにし、何でもかんでも、「差別!」って。何が何やら・・。の世界に突入してしまいます。

結局は、多くの人が事実を知れば問題は無くなるのでしょうね。

そういう意味でも、私宛の感想文で「濱宮さん多くの人へ伝えて!」というのが多いのでしょうね。

 もうひとつ、トイレやエレベータ等で「車椅子用」とありましたが、最近は「多目的用」となりつつありますね。それは、妊婦、高齢者、障害者等社会的弱者に対しての配慮。社会的弱者の裾野を広げたと同時に【車椅子用】という特別扱い(差別扱い)と取られぬよう、また、妊婦や小さいお子様連れの大変な方に対して、車椅子だけ配慮した「逆差別」の無いようにという事。しかし、これが新たなる問題。ベビーカーや小さなお子様連れがどうどうと占領状態。「本当に必要とする車椅子の人間(車椅子はスペースが必要でそこでしか出来ませんので)が使えない」という現象が多発。場所によっては「車椅子の人を優先して」と書いてますが、そんなの読んで譲る人は希少価値。

皆さんどう思われますか?


先ほどのケーキはいかがでしたか?
ケーキばかりでは飽きるので、今度は私の顔でもどうぞ!→→→

あっ違いますね・・・。えっ!もっと見たいって?!
では、特別サービス「ふざけたとぼけた野郎の写真集」をどうぞ。ありの間々の姿です。ひょうきんな男です。

あっそろそろBGM 再始動しますか?










 さて、皆さん、お風呂に入るシーンを思い出してください。思い出せましたか?
では、身体を洗いましょう。そして、湯船に入ります。さて、この時、皆さんはどうやって入りますか?きっと、浴槽をまたぎ、湯船に入るシーンを思い出したと思います。では、そこに、両足が麻痺した人間がいます。どのように、入れてあげますか?きっと、担ぎ上げ、同じように浴槽をまたぎ、入れてあげると思います。

 では、ここで下の写真を見て下さい。浴槽の横が扉の様に開き、座らせてお湯を入れるのです。浴槽は「またいで入るもの」と考えていた方には、「浴槽が扉の様に開く」という事は、驚きだと思います。




 続けます。次に、皆さん、顔の前に「握拳」を出してみて下さい。
皆さんから見た「握拳」、相手から見た「握拳」、そして、横から見た「握拳」。あなたのたったひとつの「握拳」でも、見る角度を変えるだけで色々な形に見えます。そして、今度は隣の人の「握拳」を見て下さい。「握拳」ひとつでも、「大きいのやら、小さなもの」、色々な握拳があるんです。

 「写真の浴槽」や「握拳」でお分かりの様に、物を見る時、考える時、ひとつの物を一定方向からだけ見るのでなく、多方面からも見ること、「物事を固定観念にとらわれず、柔軟にとらえる考え方」が、「物作りや人間教育、ビジネスシーンや生き方に必要」なのです。



 「物を売る時」の条件って何だと思いますか?もちろん、「良い物を安く」だと言うことは消費者心理ですよね。その心理が重要なんですよね。例えば、同じ値段、同じ物なら何を基準に選びますか?「駐車し易い」とか「買物し易い」とか施設等の物理的な面。それと、従業員というソフトの面、人間味ですね。セールスマンを例に取ると、やはり、親身になってくれる人、多少高くてもその人の所で買いませんか?それには、人の痛みを知ること、相手の立場を知ること、大切な事だと思いませんか?物が売れないと嘆く人。実は貴方に問題があるのです。己を見直してみましょうよ。



 こういう話を講演でしていると、必ず感想文に「濱宮さん、私達の知らない話ばかりで国語や算数を習うより必要なことばかり、多くの人に知ってほしい。多くの人が知った方が良い。身体が不自由で大変だろうけど、濱宮さんが頑張って多くの人に伝えて!」とあります。

 正直な話、私は自分の講演を聴いた事も、観た事もありません。もちろん、本人がしている訳ですから当たり前の事です。なので、私の講演が良い話だとか、面白みのある話なのか、残念ながら分かりません。しかし、こういう私には、アンケートや感想文というものは、とても有り難いもので、私の講演を客観的に、そして、立体的に教えてくれます。このサイトに掲載しているアンケートや感想文は、皆さんから頂いた本当の内容です。そのアンケートや感想文によると、私の講演が皆さんに受け入れられているという事が客観的に理解できます。そして、これらのアンケートや感想文での評価、感想文でのお願い。それらに後押しされて、講演を続けていける訳です。



あっ、そう言えば、そろそろBGMが終わってませんか?
最近BGMに凝ってしまって・・・さて、BGM 再始動しますか? お好みでどうぞ。(^.^)



 まだ、まだ、講演会の中身はあります。怪我の怖さとして、恋人を乗せ初詣、元旦に事故。彼女は車椅子に、そして彼氏は逃げた話。免許取立てで父親を乗せて初めての車の練習。その途中事故。父親は死亡、自分は車椅子になってしまった話。中学生でバイク無免許事故。親は引取拒否。彼は施設のたらい回しに・・・。

 この話は、実社会で運転という危険に直面する方に対し、責任と危険を知って頂く為、社会人や企業、そして、バイクや車を運転しはじめる高校などでお話する事が多いです。



 ボランティアと障害者の心構え、地域社会との関り合いで少しだけ。

 ある車椅子を使う障害者の方が、地域の社会福祉協議会に送迎ボランティアを頼みました。いつも、ご協力してくださるボランティアの方が、都合が悪く、他のボランティアの方が初めて迎えに来ました。すると・・・「いつもの人は、家の前まで車を着けてくれるのに、おまえは何で着けない!」とボランティアの方に怒鳴りつけたのです。ボランティアの方は、初めての送迎で勝手も分からないので、安全な場所に車を止めて、安全な乗り降りを心がけただけなのです。

 ある時、車椅子の女の子が橋を渡っていました。少し橋は傾斜があり、車椅子生活の私には登る事が困難なのは一目瞭然です。車で通りかかった私と妻。私は「あの子大変だから押してあげてくれないか?」とひと言。妻は、車を止め女の子を押してあげました。戻ってきた妻に、「お礼は言ってた?」と訊きました。妻は「橋を渡り終えた時、何処行くの?って訊いたらあっち!って言って行っちゃった。」でした。ちなみに、その女の子と妻は初対面ですが、私はその子の事をなんとなく知っており(講演でみかけた)、挨拶は言えるだけの知的レベルがあるのを知っていました。

 皆さんどう思われますか?
私は、「障害者の仲間として恥ずかしい」のひと言です。いるんですよ。「やってもらうが当たり前、お礼を言えない障害者」善意のボランィアさんに怒鳴りますか?手伝ってもらったらお礼を言いませんか?傾向としては、「障害暦が長い人、介助なれした障害者」当たり前の事が言えない障害者も多いのです。身体も不自由で、心まで貧しくはなりたくないものです。

 ある日、私はボランティアの方に送迎を頼みました。18時に待ち合わせ。しかし、時計はすでに20時を指しています。結局、私は待ちぼうけ。必死に友人らに電話をし、迎えに来てもらえました。

ボランティアをする時の心構えとして、約束だけは守って欲しいものです。



 車椅子で外で手助けを求めるとき、例えば、駅の階段や段差とか・・・。
そんな時、どういう人に頼むと簡単に手を借りられるか、知ってますか?
そういう時はね・・・。

●家族連れの父親、カップルの男性、体育会系の男の子(特に団体)、大工さんや水道屋さん等の職人さん

これ間違い無し!おもしろいでしょ。
それぞれで共通したものがありますよね。さて何でしょうか? 答えは講演会で。

では逆に、街角で車椅子の人を見かけた時、(手伝ってあげたいな・・。)と思ったことありませんか?
その時はなんと言えば良いのでしょうか? そういう時は「何かお手伝いありますか?」です。



 病院、医療関係で話す時があるかな・・。

 妻の出産後の入院中の話。帝王切開後、貧血、他症状が悪く、しばらく入院したんです。子どももNICU。私も自力でのお見舞いが難しく入院をお願いしたんです。その病院は承諾してくれました。家族全員で入院したんです。笑えますね。でも、私は必死。私は病室から妻と子どもへの見舞い。そんな生活を2週間。

 ある夜の事です。私は歯を磨いていました。古い病院で車椅子の設備なく、洗面に四苦八苦しながら、しかし自力で歯を磨いていました。まっ自力で出来るので当たり前です。すると・・、私の隣で歯を磨いていた初老の男性が私に向かい、「そんな事、看護師に頼んでやってもらえば良いんだよ。それが看護というものだよ」と助言。私は(はぁ!?)と思いつつ、「でも、自分で出来る事ですから・・」と答えました。その方の優しさからの助言かも知れませんが、ちと、違うのでは?

 こういう人多いんですよ。「ちょっと頑張れば自分で出きる事でも手伝ってもらう事が看護」と「勘違い」自分で出来る事は自分でやるんです。大変そうに見えても私は自力で歯を磨けるんです。だから手助けは不要。「自分が出来ない事を手伝ってもらう」それが、看護であり介護なんです。「頑張れば自分で出来る事、それまで手伝ってもらう事」は「甘え」というんです。ねっ医療関係の方。そう思うでしょ。きっとこの方は出来る事も手伝ってもらうのでしょうね。

世の中、己に甘い人ばかり。人生の先輩の助言に首かしげる出来事でした。



 怪我をして初めて電車に乗った時の話と、初めて講演をした時の話。

 復学後、後輩と電車に乗った。終点で夕方の5時頃でしたね。ちょっと込んでいて、駅員に乗る事を伝え、下車駅への連絡をお願いしたんです。そしたら駅員さんに「こんな時間に乗らないでくれ!」と言われました。私は(まっ世の中こんなものですよ・・。)と心でつぶやいて乗った。後輩は激怒していました。「忙しいし、仕方ないよ」と後輩をなだめました。

 講演会で、と言うか、討論会みたいな所で、一緒にいた生まれつきの重度障害者の女の子。「私はラッシュ時でもずうずうしく乗り込みます!」と発言。私は(ラッシュ時に車椅子が乗り込むのは、車椅子、立っている人、双方危険だよ。よっぽどの事がない限り、ラッシュ時は乗らない方が賢明!)と思いました。そして、(忙しい時に手を借りるんだから比較的空いてる時に乗るのが障害者としてのエチケットでは?)と思った。この事を他の健常者に話したら、多くの皆さんは私に同感。

 ある時、弁護士の卵さんでボランティアをしている男の子に話をしてみたら、「人権があるんだから、どうどうと乗って良い!悪いのは乗れるようにしていない交通機関の責任!」と発言。私は「目が点」状態。理想はそうだけど、現実は・・・。

皆さんどう思います?

これは人権講演会などで話そうかな。



 昔、友達とお祭りに行きました。

 道は、お祭りへと向かう人でごった返していました。友達はふざけながら「どけどけぇ車椅子が通るぞぉ~」と私の耳元で、小声で叫びながら、車椅子を押してくれてました。もちろん大声で言うほど度胸のある友人ではありません。私は、「おいおい、皆急いでお祭りに行きたいんだよ。<どけどけ>は失礼だよ。皆が歩いているのと同じで俺は車椅子に乗ってるだけだよ。<どけどけ>はないだろぉ」と呟きました。

 私は、差別だけを訴える他の車椅子の方とは違うんです。(もちろんそうでない方もいますが)

「車椅子が何様?そんなに偉いの?」という想いがあるんです。

「障害者の立場を知ってくれぇ。差別を無くせぇぇ!」も解るけど、

「健常者の立場も知ってくれぇ。逆差別を無くせぇぇ!」ですよね!?

どう思いますぅ? まっ皆仲良く・・。ねっ!



人っておもしろいんですよ。第一印象。

 例えば、買い物に行きます。車椅子で、普段着で、そして、付き添いがいるとしますよね。私が係の人に話しかけると、その応対は「付き添いの人」に答える傾向があります。しかし、スーツを着てネクタイを締めていると、その応対は「私」に答えます。

 第一印象で人を「差別とまで大げさではありません」が、判断するんですよ。

 もうひとつ、例えば、電車に乗ります。付き添いが垢抜けないおじさん(私の父でした)だと、駅員はどう対応するか知っていますか?私は少し離れた所で待っています。そして、駅員に「車椅子ですが・・お願いいたします。」と、父が言うと、「あなた切符は持ってるの?」です。しかし、若い女性が付き添いの場合は、実に丁寧に優しくなる。

面白いですね。第一印象。って。



 そう言えば、徳島県に講演会に招かれ行った時、どうやら同和地区らしかった。主催者がやけに子ども達との食事会を求めていた。何も気付かぬ私であったが、ふと感じた。

(ここは同和地区なのかなぁ?)

 昼食中、隣に座る可愛らしい「まいちゃん」に尋ねた。彼女は当時中三の女の子。
「なんか差別された事あるの?」「今の人はあまりないけど、お年寄りには言われた。」どうやら友達のお祖母ちゃんらしい。

「おまえどこの地区の子だ?」「あの地区の子はうちに遊びに来るな!」孫に向かって「あの地区の子とは遊んだらいかん!」などなど・・・。

「悲しかった・・・。」って、まいちゃんが言ってました。

 15歳の女の子。何も悪い事はしていない。その地区に産まれただけなのに・・・。彼女に何の罪があるのか? 皆さん、どう思われますか?


 この話は人権講演会などでお話します。



 日本はまだまだバリアフリーになっていません。物理的な面でのバリアフリー、心の中のバリアフリー。では、ここで少し考えてみてください。

 ここに車椅子の人がいます。区役所等、公共の場としましょう。階段が有り2階へ上がれません。さて、ここで問題です。

●皆さんは車椅子の人でも使えるようにエレベータなどの設備を設置すべきだと思いますか?

もし、その場所が車椅子の人が1年間に一人使うか使わないか分からない場所だとしたら・・・

●それでも何百万円の皆さんの税金を使ってでも設置すべきですか?


 多くの車椅子使用者はすべての施設にバリアフリーを求めます。それはそれで憲法21条「皆平等の権利」があるからおかしい事ではありません。しかし、私は少し考えが違います。すべての施設にバリアフリーを求めません。

●それは何故か?

 それはその予算等は皆さんが働いて払った血税だからなのです。年間一度程度の利用者、それこそ皆無に近い利用者。そんな場所に何百万円の血税を使うなら、世の中には、他に使う問題が山積しており、他にも方法があるのではないかと思うからです。

 じゃあ「濱宮さんはバリアフリーは要らないの?」と問われたら「必要です。」と答えます。要するに、適材適所、全体的に物事を見て判断する必要があると思います。

●2階に上がられなければ2階の窓口の人が下に降りてくれれば、何百万円は不要になるのです。

この続きは長くなるので、答えは講演で・・・。



 よく「あそこの駅員は対応が悪い。ホームに迎えに来なかった。」と言う不満を車椅子の障害者から耳にしますが、その気持ちはとてもよく分かります。人に頼りながら生活する障害者にとって、この駅員等の対応の悪さは確かに困ります。

 しかし、ここでよく考えてみましょう。

 車椅子の自分。障害を持ってしまった理由は様々です。障害を負ってしまう事は不幸の何ものでもありません。しかし、自分の運命であり、怪我であれば自分の不注意も考えられます。駅員の仕事上の怠慢は問題外ですが、駅員も迎えに来る途中、他のお客様に声を掛けられたり、スムーズに事が運ばない場合もあるのです。

 車椅子で外出する時、駅員は私たち独りで動けない人間に、手を貸してくれ、社会参加に協力してくれているのも事実です。私たちに協力してくれているのです。やってもらうが当たり前の気持ちを持たず、自分がスムーズに使えなかったからと言って、自己の主張ばかりせず、駅員の対応が悪い場合も想定し、障害者も責任を持って行動したいものですね。






こちらからどうぞ
・・・





 いかがでしたでしょうか?

ここでは、出来事を書いているだけで、講演会はもう少しまとまりがありますので、ご安心を。
「涙あり、笑いあり、心あり」きっと何かを感じ、色々と考えさせられたのではないでしょうか?私の講演会はそんな講演会です。


 講演内容は、ここでは書き尽くせません。 ヒューマンスキルとして、企業研修に取り入れて下さった会社もあります。数多くの講演を聴いている方も、改めて気付く事が多い講演であり、ビジネスシーンにも使える内容だった。と、お褒めを頂きました。又、評価として、お世辞抜きで講演に点数を付けて頂き100点をもらいました。毎年依頼の来る企業、学校もあります。講演を通して、今の日本人に対し必要な物が見えて来ています。それは、この2つの感想に集約されているように思えます。

 前述したテーマパークでの「えっーずるい!」に関しての女子生徒の感想の
「分からない。なぜなら、その女の子が車椅子の人の事を知っていたら、きっと言わなかっただろう!私達は、学校でも、どこでも、そういう事は教わらない。」(中学生の感想から)

「私達の知らない話ばかりで 国語や算数、理科よりもまず人として最低限知らなければならないことを学んだほうがよっぽどすばらしい人間になれるのではないかと感じました。多くの人に知ってほしい。多くの人が聴いた方が良い。」(一般・社会人感想から)


ご参考までに「感想文」もお読み頂ければ幸いです。 例会へのお礼の手紙 (2004年8月6日(社)境青年会議所) 講演会への手紙・感想・アンケート (2004年9月5日ヤングワークFUKUOKA) 子育て講演会へのアンケート集計結果 (2005年1月23日小松市保育園連合会・児童家庭課) 講演会へのお礼のメールPTA子育て学園祭人権企業研修 教育関係の皆様へ (2005年2月4日祖父江中学

人権講演 講師
【中学生感想】私は小学生の頃から何人もの障害者の人の話を聞きましたが、皆さん同じ事しか言いませんでした。「きっと今回も同じ事を話すんだろう」と思っていたら、濱宮さんの話はまったく違う視点でした。濱宮さんの話は、皆が絶対に聞いた方がいい!本当のバリアフリーが理解できました!/中学校講演・岡山県



親の不仲、後輩との人間関係、そしてイジメ・・・、講演会を聴いて自分の悩みがチッポケな事に気付きました。そして、命の大切さについて考えさせられました。私、死にません。元気をくれてありがとう/人権教育講演 中学校・大阪





「一度に三人を育てるのも大変なのに・・・、三人とも良い子に育つのはなぜだろう?子育て方法を知りたいね」って、職員室で話題になるんですよ。/小学校




濱宮さんの講演を聴き勇気を頂きました。そして、今の自分たちが何をすべきかを見つけられた気がします。私たちも逆境に負けず、前向きに生きたいと思います。素晴らしいメッセージを有難うございました。/青年会議所例会・東京





「感動した!」なんてありふれた言葉では言い表せません。鳥肌が立つほど、体が震えるほどの内容でした。仕事に、人生に役立てます。/企業人権教育講演会・東京





濱宮さんが帰られたあと、参加者から「良かった」と口々に言われ、みんな、「濱宮さんの話をもっと聴きたかった・・・」と、余韻を残していたようです。/看護研究会 教育講演会・千葉県





濱宮さんの言った「自分の握りこぶしを違う角度から見ると形が違う」物の見方を変えるだけで新しい事に気づく。人生が変わる。物の見方を変える事。なるほど、役立ちます!/社員研修





初めまして、CATVの者です。「素晴らしい講演ですね。絶対に多くの人に聴いて欲しい!!」講演会を放映させて頂きます。/CATV関係者・静岡県





なぜ日本に車椅子の方が運転できるトラックがないのだろう?私達メーカーが発信する必要があると思うんです。アドバイスをして頂けませんでしょうか?/いすゞ自動車・神奈川
濱宮のアドバイスから完成した車椅子でも運転できるトラック
その他各種製品開発へのアドバイス、ユニバーサルデザイン。









講演会主催者様から「失敗談」をお聞きすることがあります。

講演会を失敗した主催者様談
過去に苦い経験があるんですよ・・・。講演会を開催するにあたり、どうしても人を集めたくて、知名度を優先して講師を選択してしまいました。
それが大きな間違いでした・・・。人も集まらず、中身がなかったんです・・・。そして聴衆からは不評。
講演会の講師と言うのは、知名度だけで選ぶのではなく、内容で選ばなければ失敗するんですよ。知名度で人を集めても、無駄なお金を使うだけで、何も残らない・・・。そして、それでは「意味のない無駄な講演会で終わってしまう」んです。










演題
困難を乗り越えて強く生きる ~3つ子のパパは車いすで奮闘中!~


講演会/一般・子供達に向けたメッセージ
「幼少時に父親を亡くし、寝たきり状態になるスポーツ事故に遭い、車いすでの育児。幾多の困難をどのように乗り越えたのか。どのようにすれば、前向きに生きる力が身につくのか」をお話しします。


過去の依頼主
PTA連合会、学校生徒・保護者、青年会議所、JA、母子寡婦家庭団体、生命保険大会、地方公共団体、高齢者介護団体、社会福祉協議会、企業、各組合など幅広い方たちからご依頼があります。


依頼主の依頼目的
男女共同参画事業(父親の育児参加)、人権教育啓蒙啓発、家族の大切さ、親の背中を見て子は育つ、困難を乗り越える強さを伝えて欲しい、力強く生きる姿から自殺予防など、多種多様の講演会のご依頼があります。


講演の特徴
とにかく面白くて笑えます。とても深い言葉に気付かされ、やる気をもらえます。鳥肌が立つほど感動します。



講演の感想
 中学生「自分の悩みはチッポケだった」と、自殺を思い止まった子がいました。
 進路に悩んでいた学生達自分の進むべき道は「これだ!」と、看護師、福祉施設に進路を決めたそうです。
 高齢者や中高年の方「負けていられない!」、「元気とやる気が出た」という感想をもらいます。


実績
日本各地での講演1000回以上、毎回好評を得ています。
取材多数(濱宮郷詞で検索!)










あらすじ ↓奇跡体験アンビリーバボーに協力した写真

人は一人では生きていけない・・
あなたにもかけがいのない人がいるはず。
その人が苦しんでいる時、あなたは何をしてあげられますか。


濱宮郷詞は5才の時に父を病気で亡くした。専業主婦だった母はラーメン屋に働きに出ることになる。そんな母の姿を見つめていた濱宮少年は「いつか自分が母を支えなければ・・・」と心に誓う。そんな濱宮少年はスクスクと育っていく。母親「母さん、今日も郷詞のことで褒められたわ」。いつしか濱宮は棒高跳びで全国トップを狙える選手に成長していた。
昭和56年、その年は神奈川県でインターハイが開催される予定。そのために、大会リハーサルの意味も含めて県大会が開催された。審判も選手もいつもと違う進行に戸惑いながらも大会は進んでいた。審判「濱宮君、練習跳躍を行ってください」。いつもの県大会のように休憩をしていた濱宮。いつもの大会にはないアナウンスに濱宮は身も心も動揺した。慌てて跳んだ濱宮はマットの無い地面に叩きつけられた!  続きを視聴する








感動の講演会 人気講演会講師 濱宮郷詞

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